中華のおじさんと坊さん

📆11/09/2017🔖 雑文

ここ一週間で中華料理屋のおじさんとお寺の住職と飯を食べる機会があった。

2人とも話好きなので聞き役一方に回ったのだが、聞いているだけでも苦にならなかった。どちらも自分で決定権を持って仕事を回しているというプライドを持っていて、中華屋のおやじは半世紀間一件の店を守り続けていたことに誇りを持っていたし、住職も誰にでもできる仕事かもしれないがほとんどの人がやろうとしない仕事で、人の死と向き合う大切な仕事だと語っていた。2人とも大きく仕事を拡大することができなかったと謙遜しつつも、店や寺をつぶさず、自分で裁量を持ってここまでやってきたことに自信を持っていた。中華屋は90分飲み放題6品付き1500円だが、90分を過ぎた後もおやじの裁量で飲めたりするスタイルで、寺も葬式代は相手の言い値で決めるという独特の経営だった。中華屋のおやじは誰にも気を遣わずはっきりものを言う点が面白かったし、住職も、寺で寝る場所まで提供してもらいお世話になった。

その寺では、坐禅を組ませてもらったが、住職は、無とは自分の体からこうしたいというベクトルが出ていないニュートラルな自分の原点のような状態だと教えてくれた。意識して動作をしないという点が重要で、背筋を伸ばすでもなく、丸めるでもなく、眠るでもなくはっきりするでもなく、力を抜いて、素の自分を見つめる。考え事をしてしまっても、その考え事の進む先へ身を任せてしまって、考えが切り替わるタイミングで無を感じる。こうした無になることは自分をコントロールするうえで大切なことだと思った。氾濫する情報に触れづづけると疲れてしまうのでフラットな感覚になるのは大事だと感じた。頭がすっきりとする。

人の縁はどこでつながってくるかわからないし、住職と僕が知り合ったきっかけも、元をたどれば住職の妹と僕の大学の留学生のつながりからだと聞いた。そういう偶然さのある出会いは楽しいし、そういう機会がもっと増えるといいな。